第28回 KMSJ アート部会研究報告書
【日時】平成25年5月11日(土)18:30〜
【場所】小石川後楽園涵徳亭日本間(JR飯田橋5分)
【テーマ】日本経営思想の原点を辿る(その 3)〜三浦梅園の経営哲学
1.三浦梅園の経歴と業績
1)梅園の出生と経歴
・出生と没年
享保八年(1723)豊後国(大分県)国東郡安岐町大字富清富永区に生まれ、寛政元年(1789)享年 67 歳で死去。
・三浦梅園
名は晋(すすむ)、字名(呼び名)は安貞。
・三浦家:家は代々里正(村長)で、祖父の代から医者。
・経歴:享保十五年(1730)八歳のとき、家にあった近江八景の屏風絵の矛盾を指摘。 享保十七年(1732)十歳のころより天地に大疑を生じる。 元文四年(1739) 十七歳のとき、杵築(富永から 15km)藩学者綾部絅(けい)斎に学ぶ。 その後、中津の藤田敬所から招かれ養子の申し出を受けたが断わり富永を終生の地と決めた。
延享二年(1745)二十二歳のとき、長崎へ旅立ち、熊本・八代を経て帰る。長崎から西洋学問の話を聞くと共に中国の本を持ち帰り、天球儀(直径 20 cm) を作った。
延享四年(1747)二十四歳のとき、玖珠藩主から召し抱えの申し出を受けたが「分に過ぎる」として断った。
宝暦元年(1751)二十八歳のとき、「天地達観」<天も地も、日の月も、風も雨も、人も動物も、草も木も、すべてはこのものの現れ、太陽の動きも、月星のめぐりも、みなこのもののはたらきだ。春花が咲き、秋葉が落ちるのも、みなこの「気」や「条理(筋道)」のはたらきにほかならない>の手がかりをつかむ。
宝暦三年(1753)三十歳のとき、『玄論』(後に『元ヨウ』『垂綸子』『玄語』に)書き始める。
2)梅園の業績
・安永二年(1773)経済論『価原』成る
・安永三年(1774)『敢語』(条理学の立場から見て、道徳や政治をどのように実践すべきかを述べたもの)成る ・安永四年(1775)哲学書安永本『玄語』八巻成る→天地の条理と反観合一の認識法→「一即一一、一一即一(どんなものでも正反対の要素の統一からなる)」→(陰陽)の関係の中に、 1「同居」性(同一性)、 2「異道」性(対立性=同類的併存)、 3「力均」性(同等性)、 4「物反」性(反体性=相互否定)の四つ関係 を見た→両面を認識する方法を反観合一と名付けた。
3.高橋正和著「叢書日本の思想家23三浦梅園」の論点整理
1)存在論(条理「一即一一」「一一即一」)
⇒天文地理の諸現象、動植物の生命現象もある筋道(条理)によって「気」が「理」に従って運搬されることで展開する。
2)認識論(反観合一) ⇒「物」は必ず「神物」から構成され、「物」は「天」と「地」から構成される。この認識を「一一」的「条理」による実存世界の把握という。 ⇒「動物」と「植物」は「一一」的に「天地」を「反」して「敵対」的に存在する。「動物」でも、水棲動物と陸生動物に「一一」的に分割し、「植物」でも、水棲 植物と陸生植物に分割し、「一即一一」に存在する。「一」的「生物」は「一即一一」の「条理」に従って、「天地」を「反」しているからこそ、「水中」で生命のあ るものは「陸上」で生命を失い、「水中」で生命を失うものは「陸上」で生命を保つことができる。
3)視座の哲学(球体哲学=球体視座)←『玄語』
⇒「円」的「球」的な形態の「一個の地球」上の東半球に生活している日本人にとっては、東半球が「面している半面」となる。逆に、「背」とは、西半球が「背い ている半面(面背)」となる。したがって、太陽は経線上を東から西へと巡り、東半球で始まる「朝」は西半球では「夜」の始まりになる。 ⇒太陽は緯線上を黄軸が、南緯二十三度半から北緯二十三度半へ、北緯二十三度半から南緯二十三度半へと移行し、地球上の冬と夏の現象が発生し、北半球の「夏」 は南半球の「冬」になる。→「夏即冬」 ⇒極北の地(北極とその周辺)と極南の地(南極とその周辺)では、「白夜」(昼)と「黒昼」(夜)が「一即一一」的に同時展開される。→「昼即夜」
4)宇宙視座←『贅語』
⇒「惑星天」や「恒星天」の外側に観察者の「視座」を移動させると、太陽や月や「星」という名の恒星群や「辰」という名の惑星群が、一団となって、球心的に 地球に向かって終結している状態を目の当たりにするであろう=宇宙世界の空間論的な把握。 ⇒観察者の「寿命」を延ばすと、果てなき大過去から今日只今までの長い長い時間さえ、あたかも夜明けから日暮れまでのように短い「瞬間時間」であるかのよう に思えるであろう。
5)時間論と空間論
⇒空間的存在としての「物」(測量的認識)が「宅」する場所、すなわち居住(収容性)の場所としての空間と、時間的現象としての「期」(計量的認識)が「路」 する道路、すなわち交通の通路(引率性)としての時間を構想した。
⇒梅園は時間を「時」、空間を「処」としている。 しかも、「袞袞(こんこん)」たる「純粋時間(終始の両端がない)」と「(おうおう)」たる「純粋空間(上下 左右の方位がない)」を把握し、時間と空間を「一即一一」的に、すなわち条理的に把握し、すべてを捨象しても最後に「気」が残る=「一元気論」。
⇒「物」とは「天地」である→「純粋空間」のある部分を占有する多種多態な存在物を総称して「天地」という→梅園は「天地」を「一大天地」と称し、これを「一 即一一」的に「剖析」すれば「大物」と「小物」に分かれる。「大物」は「大気圏外」での天体と現象及び「大気圏内」での気象と現象の総称。
「小物」は「生」すなわち生物であり、これを「一即一一」的に「剖析」して「動」と「植」すなわち動物と植物になる。「動」を「一即一一」的に「剖析」すると「堅鳥」と「横獣」 すなわち鳥類と獣類になる。
「植」を「一即一一」的に「剖析」すると「大木」と「小艸(そう)」すなわち本木類と草本類になる。 ⇒「期」は「一即一一」的に「剖析」すると「長期」と「短期」になり、「長期」は天体現象上の時間「循環」、「短期」は地上現象上の時間「鱗比」となる。
4.三浦梅園『価原』『条理哲学』に対する KM 経営視点での考察
1)梅園が生きた時代背景
三浦梅園が生存した 1723~1785 年は江戸時代(1603~1868 年)中期後半にあたる。この時代は、江戸時代中期前半の元禄時代(1688~1702 年)の経済の急成 長により、貨幣経済が農村にも浸透し、四木(桑・漆・檜・楮)・三草(紅花・藍・麻または木綿)など商品作物の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、 瀬戸内海の沿岸では入浜式塩田が拓かれて塩の量産体制が整い各地に流通した。手工業では綿織物が発達し、伝統的な絹織物では高級品の西陣織が作られ、また、 灘五郷や伊丹の酒造業、有田や瀬戸の窯業も発展した。やがて、18 世紀には農村工業として問屋制家内工業が各地に勃興した。人と物の流れが活発になる中で、城 下町・港町・宿場町・門前町・鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であった。18 世紀の 初め頃の京都と大坂(大阪)はともに 40 万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口 100 万人前後に達し、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の 都市でもあった。
このような経済の発展は、院内銀山などの鉱山開発が進んで金・銀・銅が大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだため、18 世紀に入ると鉱山の減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、新井白石の海舶互市新例(長崎新令)であった。その骨子は輸入規制と商品 の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間 30 艘、交易額は銀 6000 貫にまで、オランダ船は年間 2 隻、貿易 額は 3000 貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物などの国産化を奨励した。
梅園は随筆『五月雨抄』で国際社会的犯罪として「きりしたん問題」と「北方領土問題」を力説した。この時代、西洋世界における急速は天文地理学の発達や羅 針盤の発明による航海術の発達により、冒険家達の海外進出が流行し始めた。梅園は、「西洋世界は智巧に勝れ、天文地理に達し、日月星辰のあるところを測りて、 自らの船のある処をしり、羅針盤をもって針路をさだめ、万里の大洋を掌中に置き、自在に、ひとの国にかよい、利をもってたぶらかし、教(耶蘇教)をもって、 まどわかし、ひまをうかがって人の国をうばう。」という認識を持った。「北方領土」は、1720 年に白井白石が『蝦夷志』を著し、1725 年ロシア帝国探検家ベーリ ングがカムチャッカを探検、1745 年梅園第 1 次長崎旅行。1754 年松前藩が国後島に「場所」を設け、1771 年ハンペンゴロがロシアに日本侵略の陰謀があると、長 崎のオランダ甲比丹経由で幕府に伝え、1778 年梅園第 2 次長崎旅行。1778 年北海道のノッカマップにロシア船二艘来航し、1792 年ロシア使節ラスクマンが、根室・ 松前に来航し通商を求める。
2)経済論『価原』と KM 経営について
梅園の「価原」は、 第 1 節六府(水火木金土穀)三事(正徳・利用・厚生)、 第 2 節金銀と物価、 第 3 節権柄(天下の勢をとる事)、 第 4 節有用の貨(経世済民のた
めに貨幣)、 第 5 節経済と乾没(商売)、 第 6 節悪貨の弊害、 第 7 節金銀の役割(交換手段)、 第 8 節廉恥礼譲(清く正しく恥を知り、礼儀をつくして謙虚であること)、 第 9 節利用・厚生・正徳(利用を初とし、厚生を本とし、正徳を主)、 第 10 節『価原』考(経済についての考え方)からなる経済論。
第 10 節『価原』考では、商売の心あり方を説いている。すなわち、商売においては、 1豊かさ観の変革(六府=生活必需品が大事)、 2為政者が商買の心による 政治を止め、「義こそ利」とする王道の心を回復する、 3全て金次第という破廉恥な風潮を是正し、廉恥の感覚(=礼節)を回復するを大事としている。
梅園『価原』で示した商売の心のあり方は、『知ピラミッド』の「知心」のあり方に相当する。梅園『価原』は、後に述べる梅園哲学『条理論』のアプローチによ り商売人の心のあるべき姿を論じたものといえよう。すなわち、商売人の心のあるべき姿は、「義(正しい行い)を利」とし、「全て金次第」という風潮を是正し、「廉 恥(礼楽)」を求めるべきものである。
翻って、現代のグルーバル経営時代においては、一国内市場に対するビジネス視点だけでなく国際市場を見据えた国際ビジネス視点が求められる。多民族社会を ターゲットとする国際ビジネスにおいて「義の利」を得るためには、各国で生きる多民族の「義」の理解が求められよう。各国で生きる多民族の「義」を理解する ためには、各国・各民族の歴史・宗教・言語・文化等の相互理解が欠かせない。国際ビジネスをめざすグルーバル企業においては、各国の市場多様性(マーケット・ ダイバーシティ)を歴史・宗教・言語・文化等から学ぶことが重要である。そして、現地社員との協働を生み出すためには、現地社員を巻き込んだ形で意思決定す る民主的プロセスが重要である。そのプロセスにおいて「面従腹背」を避けるためには、グルーバルマインドセット、すなわち
1広い視野を持つように促す、
2矛 盾を受け入れる、3プロセスを信頼する、
4チームワークと多様性を重んじる、
5変化と共に歩みながら意味を探求する
5つ思考実践が求められよう。
3)梅園哲学『条理論』と KM 経営について
梅園哲学『条理論』は、自然界の条理(筋道)探求をモデルにした哲学的思考である。梅園は『条理論』により地球・宇宙を哲学することにより「球体視座」と 「宇宙視座」を獲得し、「純粋空間」「純粋時間」を把握し、遂にこれらを「一即一一」的「条理論」で展開し、すべてを捨象しても最後に「気」が残る=「一元気 論」に到達した。
日本の伝統文化である武道・芸道の本質は、技の「型(Kata)」による学び+心の「魂(Ki)」による学び=「宇宙的パワー」の創出である。その意味で日本人は、 「気」の重要性に早くから気づいた民族であった。武道の相撲道・弓道・柔道・合気道等では大自然と一体化して体から発する「気」の習得を大切にする。また、 芸道の和歌道・茶道などは歌や茶室装飾等から大自然の「わび・さび」等を表現し、能楽道などは人間世界の情念を「幽玄」で表現する等大自然や人間を超えた存 在、すなわち「気」の存在を表現してきた。
既説したとおり、梅園は『条理論』により地球・宇宙を哲学することにより「球体視座」と「宇宙視座」という認識を獲得した。そして、遂に始まりと終わりの ない「純粋空間」と「純粋時間」を把握し、これらの原点が「気」であることを導いた。この梅園の視座を学ぶこと、つまり日本伝統文化の武道・芸道の本質を知 り、それをグルーバルな KM 経営に活かせる素地は日本人には既にあるといえよう。
逆説的には、国際ビジネスを目指す日本企業においては、グローバル KM 経営を梅園哲学で再考することにより、世界各国に受け入れられるビジネス構築の可能 性は十分にあるといえる。
(文責:小野瀬由一)
【参考文献】
1高橋正和著「三浦梅園」(平成 3 年 9 月、明徳出版)
2山田慶児著「日本の名著 20 三浦梅園」(昭和 57 年 8 月、中央公論社)
3高橋正和著「江戸の哲学者三浦梅園の思想」(昭和 56 年 5 月、ぺりかん社)
4田口正治著「人物叢書三浦梅園」(昭和 42 年 3 月、吉川弘文館)
5三浦頼義著「三浦梅園伝」(昭和 56 年 7 月、草土文化)
6小川晴久著「実心実学の発見」(論創社)
7“モト”氏運営 Weba href="http://nihonshiki.sakura.ne.jp/keizai/kagen.html">「日本式経済論:三浦梅園『価原』の章
8ウィキペディアフリー百科事典
「江戸時代」(以上
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